愛より重くて恋より軽い

未来の私が読んで楽しいやつ

兄と弟とおたくのジレンマ的なはなし

劇団朱雀復活 東京公演のゆっさんを見て、肌で感じた話をつらつらするおたく覚書。





入口が異なる以上、同じものを見ていても同じことを感じることはできない、っていうのが復活公演でずーっと思ってることなのでまず前提の話をしますね。

解散後に劇団の外へ放り出されて、創さんという仲良しを1年間サポーターにつけて(全現場偶然とかほんとか?)お仕事してた時のゆっさんに出会ったのが私の始まりでした。NU版TRUMP。ほんとはその前のAZUMI幕末編でも見てたんだけど、戦国編あんなに観に行ってたのが信じられないくらいあっちは刺さらなくて、当然ゆっさんもほぼ記憶になかったので、TRUMPが初めてということにしておきます。創さんとの関係性とかも全然知らなくて、楽でWアンジェリコフィーバーまでの流れでソフィの恰好してるのにビンタの素振りしてる手がめちゃくちゃ高速で、うわすごい好きだなって思ったのを覚えてる。ピンポイントすぎる。

そこからフォロワーに勧められておくほそ千秋楽観に行って、晩夏とかオレカタとか過去作円盤あさってるうちにきたのが「熊本で大衆演劇にゲスト出演します」の報で。これ逃したら次にいつ大衆現場あるか分からないんです!!!!ってフォロワーに言われて飛びました。1週間前告知がまだ早い方と言われた意味が今ならわかる。路線バス乗り継いでいって危うく迷子になりかけた。まぁその年にバーイベがあって、杉田でゆっ座長の大衆演劇っぽい公演もあってと、結果的に割と見れた年だったんですけど笑



そんなこんなで外部仕事中心に、大衆芝居も舞踊も解散前後の過去出演作もそこそこ見つつで迎えた朱雀復活公演だったけど、初日の感想としては「朱雀になるだけでこんなに違うんだな」でした。見たことあるのに、見たことない人だった。朱雀も早乙女兄弟もめちゃくちゃ見たかったし、すごい好きだなって思ったけど、同時に『そこに立つゆっさんが一番好き』ではないなって思った。かなしい。でも同時に、劇団時代から見てる人たちが皆一様にゆっさんを『弟』としてしか見れない理由もなんとなく理解できてちょっとだけすっきりもした。

ゆっさん自身、たいちさんに弟として大事にされているし大事にされてると認識してるからこそ、『弟』というたいちさんの演出を受け入れてるんだなって思った。私は『弟』ではないゆっさんに先に出会って好きになった人間なので、そう演出されてるからそう振る舞ってるんだな、という肌感覚があった。そして、それを本人が嫌々やってるとかではないなということも感じた。
解散前のたいちさんからも指摘されてたけど、ゆっさんは今でも超気分屋だし、その気分にムラがあるのも何度も見たことある。だからこそ、そういう気分が乗ってる・乗らないとか以前に『劇団朱雀』は本人の心構えのカテゴリーが違いすぎてた。思い入れがあるから、という意味では美女丸やってた時に近いけど、そもそもゆっさんもここで生まれ育ってきたんだから唯一無二のカテゴリーなんだよね、ってビシビシ伝わってきた。

たいちさんから見た『劇団朱雀』の『弟』として演出されているんだから、見ている人が『弟』と思うのも当然、ってことだったんですよ。この『弟』という部分に、見てる人がたいちさんと比較しているような、無意識の軽視が入ってるような気がずっとしてて、延々もにょもにょしてたんだけど、たいちさんがそう演出してるんだからそりゃそうだなと。たいちさんは見せたいものを観客に見せる力がめちゃくちゃ強い、というのを復活公演通して私自身も体感したので、なおさらそう思った。



とはいえ、そんなムラっ気がある状態でも解散~復活までのお仕事見てた人間的には、東京前楽あたりまで全然満足できなかったんですよね!これは東京公演の感想まとめにも書いたけど!
殺陣もお芝居ももっと出来る人だって知ってる。もっと出来てる時を見たことがある。なのに、そこに到達していないレベルを「成長した」って言われるのは5年という時間経過によるものだけで、それ以上のものを手に入れてる人なんだって、私が好きになった人はもっとすごいんだって、もっとちゃんと見せてくれよってすっごいモヤモヤした。

ゆっさんに落ちたタイミングは私にしては珍しく明確で、過去出演作色々教えてもらったりダビングしてもらったりする中に『弟』として出てたバラエティーが入ってて、そこで放たれた「早乙女兄弟のファンじゃなく、自分のファンが欲しい」って言葉が決定打になったのを覚えてる。だから私にとってのたいちさん現場は、ゆっ村から足を伸ばしてきている『めちゃくちゃ出目のいい賭場』なんです。相性がいいし、現場に入ってないと体感できないような事件も起こる楽しい賭場。

賭場で出会ったたいちさん自身や演出物を好む一方で、私にとってたいちさんは「いつか絶対に越えるもの」として存在してるんだなって思った。だから朱雀という場所で兄に演出されているものとしての『弟』を見た東京初日で、もっともっと磨き上げて「その先」を見せられる力があるってこっちは知ってるのに、復活というこの場で出さないなら本当に5年の意味がなくなってしまうんじゃないかと思った。本人の言う通りタイミングは今じゃなかったと思ってたけど、結局は頷いたのになんでここで出さないの。おかしいでしょそんなの。外の現場でどんなにムラがあっても決めるところは絶対決めてたんだから、劇団朱雀はそれ自体が全部決めるところじゃないのかよ。ぐるぐる。



そんなこんなだった東京前楽・千秋楽めちゃくちゃ良かったですよね。特番見た限り、やりたい気持ちに身体が追いついてないってことだったのかなと思うけど、ほんとに東京公演期間はそんなことを一人でぐるぐるしててしぬかと思った。おたくすぐ死ぬ。
ぐるぐるしてる間に、私は『早乙女兄弟』自体もすごく好きだし、『弟』の顔もかわいいなぁって思うけど、なにより惹かれていたのは『弟ではないが、朱雀の狂犬』っていうほんとに限られた条件下でのみ存在するまぼろしだったんだなって思ったんですよ。条件厳しすぎてもうほぼほぼ見ることは叶わないんだけど。前楽と千秋楽ではちょっとだけ会えちゃったんだよね。ラッキーだったね。

という旨のことをもにょもにょしているよという今この瞬間の気持ちを残しておくための雑記でした。たぶんお気持ちがアレになるとまた増えたり消えたりするねこれ。私にとってのたいちさんの見え方が変わったように、誰かにとってのゆっさんの見え方も変わってたらいいなあ。



【追記】
疲労骨折とそれに伴うあれそれで一周回って、復活前に考えてたことが再燃してきちゃったんですけど、ゆっさんっていつまで「朱雀の両翼」をたいちさんと一緒に担ってくれるんだろうね。
私はたいちさん現場に足伸ばしてたいちさんが作るものや考え方に触れるまで、それはゆっさんにとって絶対に担わなければいけないものなのかな、この人は兄と違って『座長』という重責も称賛も背負わないけど、それでも運命を共にしないといけないのかな、ってネガティブに考えてたんですよ。朱雀自体はゆっさんにとってやっぱり大切なものなんだなって思ったし、私もそれが楽しいと思ったから今はそこまでネガティブな見方はしてないけど。
たいちさんのFCイベントで兄弟の気まずい会話&五本勝負したときに「自分プロデュース公演と兄プロデュース公演が重なったら?」ってたいちさんに聞かれて「前者がズラせる段階なら参加する」って答えたのは本心だと思うけど、同時にたいちさんが笑い交じりに「将来は沖縄移住ですか?w」って聞いたのに「そうですね、仕事の時に東京来る、みたいな生活できたら」って答えたのも本心だと私は思っていて。後者はそんなマイペースに仕事するんか!?って思ってたし、今でも思ってるけど。
そういうライフスタイル起因にせよ、今回みたいな故障してるけど次の仕事も間近にあって、みたいな状況にせよ、遅かれ早かれたいちさんに与えられた朱雀での役割を降りる時が来るのかな、って今再びぼんやり考えてる。なんだかんだこの人、お兄ちゃんのこと好きだよなって思うことはしょっちゅうなんですけど、でもゆっさんの人生はゆっさんのものだしね。分かんないよね。これに対する回答は私もまだ出せてないので、特にオチはないです。