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『RADIO KILLED THE RADIO STAR』感想まとめ


2013年6月29日に観て未だに忘れられない、*pnish*プロデュース 『RADIO KILLED THE RADIO STAR』についてのログまとめ。

文章が若い。

 

 

 

 

【観劇当日】
久々に現実と虚構の境目が分からなくなる俳優さんの芝居を見たな、というのが第一の感想。前方席の上手端に座ったのですぐには状況が確認できないこともあって、それが尚更恐怖を増長させた。オープニングで人の足が机に乗ってて震えてる、って気付いた時はまだホラー気分だった。

一発目にフルスイングで殴られるとことか、所謂ハリウッド映画的な音で怖がらせる技法と、曲がかかっていて音が聞こえないブースの向こうで恐怖を煽る技法が最後まで観客を油断させない要因だったと思う。しかもそれが題材であるラジオの仕組みに沿ってるのがすごい。

恐怖だけの舞台でないことは確かなのだけれど、どうして竹丸が犯行に及ぶに至ったか、が完全には明らかにならないところが、たとえリピーターであってもその恐怖を完全には払拭できない効果にもなってたと思う。何度見ても竹丸の狂気は未知の恐怖のままで、彼には彼なりの凶行に及ぶ事情があるんだ、という情状酌量に浸りきらせない。

生電話のときに一度目の「み……し………」で何を言ってるのか気付いてしまって、音量大きくなったのは怖くなかった。でもあれは内容だけで十分な怖さがあったから、正直普通に観てるより怖いシーンだった。自分だけが異常に気付く恐怖。ホラーに関する効果が計算しつくされてる。

誰がやられてるとこだったかな……流れてる曲が「この痛みこそが生きてる証」みたいな歌詞で、その辺りにも色々仕込まれてるんだろうな、と思うともう一度観たい。でも、たとえば昼公演を見て夜当券買おう、とは思えない。恐ろしく体力を必要とする舞台。

そう感じることさえ、竹丸の言う観客の入らない舞台・数字の取れない番組に伸ばされる遅すぎる手になってしまうのではないか、という観客としての在り方の恐怖を煽られる。興行としては別日にリピーターがある方がいいのかなと思うし、精神的キャパシティからもそうしたくなるのに、俳優と劇団を想う気持ちが怯えてる。

バンド追いかけてる時からの命題を真っ直ぐに突き付けられて、あそこで完全に虚構として怖がる域を超えてしまった。エンターテイメントを生業にする人にとって竹丸の狂気は他人事と言い切れるのだろうか、と思うとスクリーンの向こう・電波の先で起きてる出来事ではないんだ。

DVDにする意味がない、のはもちろんホラーとしての効果が格段に落ちるからだけど、それ以上に公演に足を運べ、と言葉以上の力を持って迫られているからだ。終わってからじゃ、意味がない。私達は一公演の終わりがいつ、一演者・一劇団の終わりになるか分からないと言われたんだ。

この公演を見ることは、エンターテイメントの命題に対してこんなにも心に刺さる形で言及される、という恐怖を体験するということだ。シナリオが面白くて、役者の演技が素晴らしくて、だからこそ恐ろしいものを見た。

これをサイコホラーとして観て終われた人が羨ましい。リピートして演出としての恐怖に堪える以上に、一公演に込められたメッセージを感じ続ける1時間40分と、カーテンコールで笑顔で客席を見渡す役者を見ることの方が恐ろしい。それがエンターテイメントを守る術だとしても。

 

 

 

V系の終わりとレディレディ】
本人の直接的な動機は別にあるとしても、竹丸が凶行に及んだ理由はリアルに聞いていれば良かった、と思う番組を作るためでしょ?これって、いつぞや読んだキリトのライブ演出の話に似てるんじゃないかなあとふと思って怖くなった。市川さんの求める様式美は凶行の理由を孕んでる。

ライブはそこにいる人しか見れないから、映像に残らなければ「そんなのなかった」って言える。だからメッセージとして発信したいなら政治絡みとかちょっとアウトっぽいものも使っちゃう。とそんな感じのことを言ってたんだけど、発想的には同じものが根元だよなあ。

しかもあの人は「お前ら与えられたところに色塗ればそれでいいのか」という甘美な文句で無茶通しちゃう。キリトの持つカリスマ性とか発想とか、スタッフ側の想いとか、この理論が通るための他要素はもちろんあるんだけど、根幹は面白いものを作りたいという想いなんだよね。

ヤンキー精神というか、無茶を言えば通りが引っ込むだろ!みたいなあれ。実際そこから生まれたものって本当に魅力的なんだけど、やはりエンターテイメントを生業にしている人間は竹丸との境界に限りなく近いところを歩き続けてるんだと身近な例があった驚き。

 

 

 

みゆきちゃん】
みゆきちゃんの狂気が私にとって一番虚構というか、お芝居の中の人に見えた理由はこれだな。板の上に立ってる側の人たちに見えてる私たちの狂気の可能性を表してたんだろうけど、私はあれを純愛とは呼ばないみゆきちゃんは作家が恋愛という一般的解釈の枠に押し込めた盲信だ。

恋は盲目、というけれどガチ恋と応援は似て否なるものだよ。何をすれば与えられたものを返したことになるのか、それは彼女の中でしか答えが出ない。自分の行動が彼の人生を左右することを彼女はきっと分かってたし、けれどそれがプラスでもマイナスでも役に立つなら良かった。

彼女はこれ以上、竹丸になにかを与えてほしかったわけじゃない。ただ、返したかっただけ。その気持ちが分かるから私の中に彼女への未知的恐怖はなかったし、恋愛感情というズレた枠に押し込めて彼女を利用しているつもりだった竹丸と小暮に興醒めすらしたのかもしれない。

みゆきちゃんは、きっと望まれたら竹丸を殺すことだって出来たと思うよ。与えられたものを返したい、なんでもしたい、ってそういうこと。現実と虚構が曖昧になるあの空間で、私たちは表現者と観客の決して分かり合えない壁をまた、偶然の産物として見せつけられたんだ。

 

 

 

【vs浅子】

(公演当時ツイッターをしていた作演出の人があんまりに色々一方的に言うのでキレた)


これでもかってくらい不愉快な感情に苛まれたのでフォロー外してしまった。そもそもあの題材を扱う時点で、私たちに分からないあなたたちの苦悩があるように、あなたたちに分からない私たちの苦悩があるのだと声を大にして言いたい。

役者が好きって想い一つだけでは、とても見れたもんじゃない演目があることを私は知ってる。逆に、役者に興味がなくても何度も見たい演目があることも。今回の舞台は後者だったけれど、いつもそうとは限らない。娯楽にお金と時間をかけることはそう簡単なことではない。

どんな娯楽・芸能も、消費者の前に出されればどんな形で消費されても文句は言えないと私は思う。文句を言って消費者を選ぶならそれも構わないが、それを商業ベースで行うためにはまた別途対策が必要で、それは娯楽・芸能を作り出すのとはまったく異なる分野の話だ。

消費者を選ばないという姿勢を見せながら文句を言うのはフェアじゃない。私たちが周りからおかしいと思われない保障がないように、あなたたちがおかしいと思った人が狂気の一線を越えていない可能性だって十二分にあるのだ。

古典芸能に関わる仕事に就いた友人が「娯楽は人生において最も優先度が低い」と言い放った時の感情を、私は忘れない。自身の仕事が人に与えるものはそう多くないと言いながら、その仕事に就く友人の苦悩は私には分からない。けれど、だからこそ享受するこちらも返せるものがあるなら形にしたいと思うのだ。

与えられる立場なのに報われたい、とは思わないけど、そのバットを振り続ける姿をこの目で見たくはないと誰しもが思うよ。何度も何度も想像して、それだけで痛みを感じるのは私たちの自己都合だけど、実際に振られるバットを見続けながら応援するのは大変で、やめる人がいたって仕方ないことだと思う。

作り手が作品外で言うことってすべて蛇足だと思う。でも、蛇足と分かっていても聞きたいくらい作品が好きなんだよ。与えてもらってる、って自覚はあるけどだからって下に見られたりナメられたりするのは許容しない。そんな気なくて、悪意なき悪意なのは分かってるんだけどね。生きてるから怒るよ。

浅子のツイートが単発で回ってきてて、ここだけ切り取れば言ってること正しいっていうか正しくないことは言ってないんだけどね!?ってなる(・ω・)それは板の上の人の特権かもしれないけれどずるい。

良くも悪くも情報を切り取れるのがツイッターというツールじゃない?そこだけ切り取られれば、そりゃこの人の言ってることは間違ってない!って皆言うよね。あなたの意見に怒ってる人の観点は別にあるし、その真意をあなたが意識せず切り取って除外してしまうのも、ツイッターだから仕方ないけどね。

そこまで言うならブログでやれって感じなんですけど、まあブログでやっても彼が本当にその言葉を届けたい人は彼のリスナーではないし、aliveしてるリスナーが無用な良心の呵責に苛まれるだけなんですけど…

 

ついかっとなってしまったけど、向こうが作品を通してストレートに分かり合えないんだと言ってきた以上、こちらもそれに対しての意見を言う権利はあると思ってるからね!

 

 

 

 

【蛇足】
俳優目当てでなく、原作ありでもない舞台って、実は宝塚以外初めてだったんだけどとんでもないものに出会ってしまったなあ…という……笑

あと全然関係ないんだけどビクビクしすぎて途中で片目のコンタクト落としました。ワンデーだったし眼鏡持っていってたから問題なかったけど、途中で見え方変わって余計ビクビクした。自己都合による恐怖。

自分の好きな俳優さんに対して、観劇前はレディレディ観ないかなー怖いの苦手かなーと思ってたんだけど。観劇してからはなんとも言えなくなってしまった。まだ若くて一般人に戻る人生の選択肢があるうちに一度考えてほしい気もするし、今はまだそこに目を向けないまま芝居を楽しんでほしいとも思う。

もう既に考えてるかもしれないけど、多分ちょっと覚悟というか、そういうものの質には違いがあるかなあと思うんだよね。あと、この件について考えながら役者をやるって本当に演じることが好きでないと辛くて前を向けないのでは、とも思う。それなら仕事にする前に考えるかなあ。うーん。